私は長年にわたって筋トレ(ウエイトトレーニング)を趣味としています。いわゆるボディビルですね。
筋トレを行っている人の中には、自己を厳しく律し、自分に厳しく他人に優しい人も数多く存在します。私もそのような人間であり続けたいと思っています。
しかし逆に、筋トレを行っている人の中には「自己責任論」を振りかざす人や、いわゆるネオリベ的個人主義(弱肉強食を良しとし、自分さえ良ければOK)という考え方を持つ人も存在している、という残念な現実があります。
今回の記事では、この背景にあるものと、筋トレを趣味にする人に限らず、日本社会に希薄だといわれる「公(おおやけ)」の概念とからめて私見を述べたいと思います。
なお、この記事では「筋トレを習慣的に継続している人」を「トレーニー」と表記します。ここでは「トレーニー」とは、ボディビルやフィジークなどのボディメイク系の競技を意識したトレーニングを行っている人のみでなく、その他のスポーツの補強としてウエイトトレーニングを行っている人も含めて「トレーニー」と呼称します。
ステレオタイプなトレーニーの類型
まずはじめに、トレーニー系のインフルエンサーなどの発言によく見られるものを列挙してみます。インフルエンサーの場合は、もちろんセルフプロデュースの観点から時には誇張した発言をすることは当然のことだと思いますが、以下は日常生活においても目にすることができる発言という前提でまとめています。
成功体験至上主義型
「俺が努力して筋肉をつけたんだから、お前もやればできるだろ?」
自身の筋トレ成功体験を万能の成功法則とみなし、それを適用できない人を「甘え」と見なすタイプです。何事も「努力次第」と考えがちで、環境要因(遺伝、経済状況、病気など)を軽視する傾向があります。他人の失敗に対して「言い訳するな」という姿勢を取ることが多い。
弱肉強食賛美型
「この世はフィジカルとメンタルの強い者が勝つ、弱者は淘汰されるだけ」
「世の中は厳しいものだ」「強い者だけが生き残る」といった価値観を持つタイプです。エスカレートしていくと「社会的弱者は淘汰されるべき。そうすれば社会はタフになる」などという危険かつ過激な優生思想へと発展するケースもあります。会社でも体育会系のノリを好み、厳しい上下関係を肯定します。筋トレが「強さ」の象徴であると考え、自身の肉体を権威の根拠とすることもしばしばです。
ですが、以下は我田引水やポジショントークから言うわけではないのですが、ボディビルなどのボディメイクの世界においては、こうしたタイプは、実は一般の方(非トレーニー)が想像するほどは多くはないと考えています。このタイプは、むしろラグビーや柔道などのスポーツで、高校→大学→社会人競技の流れでスポーツ一本で身を立ててきた「世間知らずアスリート」に多いといえます。
努力至上主義型
「デブは自己責任、痩せたければ食事を管理しろ!」
弱肉強食賛美型と似ていますが、健康や体型に関する問題をすべて「本人の努力不足」に帰結させます。「食事管理や運動すらできない奴が、まともな仕事ができるわけがない」といった偏見を持つことも少なくありません。「生活保護なんて甘え、努力しない奴に社会が支援する必要はない」など、極端な自己責任論を唱える人もいます。
- そもそも「努力できるかどうか」は遺伝的要因の影響が大きい
- 努力それ自体が目的と化し問題自体は解決していない人も多い
- 努力が必ずしも実を結ぶとは限らないため不遇・不幸な状況にある人すべてが努力不足とは限らない
こうした観点が思考から抜け落ちているタイプです。
アルファマッチョ型(俺TUEEE系)
「筋肉こそ最強、俺が支配者だ!」
身体的優位性を社会的優位性と混同するタイプ。「マッチョ=モテる=成功者」という単純な価値観を持つことが多い。インフルエンサーの場合、「筋肉こそが成功の鍵」と信じ、フォロワーにもその価値観を押し付ける。それがそのままビジネスになっていることもしばしばあります。競争社会を全面的に肯定し、筋トレを「人生の競争」のメタファーとして語ることが多いです。
ストイック至上主義型
「自分に厳しく生きないとダメになる」
毎日厳しいルールを自分に課し、それを守ることが正義だと考えるタイプ。「甘え」「堕落」といった言葉を好みます。当人にこれら価値観を自身にのみ適用するだけの分別と心の強さがある限り、何の問題もないタイプといえます。しかし、これらを他人に押し付けだすと、厄介なことになります。
他人にもストイックな姿勢を求める。余暇や娯楽を軽視し、「努力こそが人生の本質」と思い込んでいる。精神論を好み、「根性があれば何でもできる」などと考えがちです。
筋トレ万能幻想型
「筋肉がすべてを解決する」
筋肉を持っていることが人間の価値を決めると信じているタイプ。「メンタルが弱いなら筋トレしろ」「うつ病?筋トレで治るぞ」「プロテインを飲めばインフルエンザなんか怖くない」などと短絡的な解決策を提示しがち。科学的根拠をあまり重視せず、個人の体験談を絶対視する傾向がある。何か問題があっても「もっと筋トレすれば解決する」と言ったりします。
「他人のためになりたい」という一定の善意を含む類型であるとはいえますが、科学的根拠や個人差を考慮しないアドバイスという点で、他の類型に負けず劣らずの破壊力を備えたタイプであるといえます。
トレーニーのペルソナ
次に、トレーニーのペルソナ1についてまとめてみたいと思います。
健康である
筋トレという活動は、まず前提として健康でなければ継続が困難であることはもちろんのこと、始めることすら困難です。何らかの理由から健康を損なってしまった人は、まずこの入口の段階にて足切りされるという現実があります。
知的能力が一定以上である
筋トレには自己分析、科学的に妥当な情報の収集(情報収集能力・読解力)、結果の分析などのプロセスが重要です。というか、何事も楽しくないと続けられませんから、筋トレを続けられる人はこうした活動に楽しさを見出すための知的能力において一定の水準を満たす個人である率が高いといえるでしょう。
もちろんこれはすべてのトレーニーがそうというわけではないですが、大枠の傾向として知的能力が一定以上であるという過程は可能だと考えます。
フィットネスは賛美されやすい活動である
「筋トレを趣味にしている」というと、大抵の人からは賛美、称賛されます。これはギャンブルや飲み歩き、ナンパ、走り屋、などの、人によっては眉をひそめられるようなアクティビティとは対照的といえるでしょう。こうした社会的傾向は、プライベートにおける友人関係、恋愛関係において有利に働くことは言うまでもなく、さらにはビジネスにおいても有利に働くこともあるでしょう。
こうした、他者から賛美される経験が多いと、承認欲求が満たされ、必然的に自己価値感は高まることになります。自分に自身を持ち、自己肯定感が高い人物像が見えてきます。
トレーニーのペルソナのまとめと他者への共感性
以上の点から見えてくるペルソナをまとめて考えてみると、いわゆる社会的弱者のそれとはかなり異なることがわかります。つまり筋トレを趣味としている人は、現代社会において大小の差はあれども一定の成功を収めている個人である率は高いのではないか、と仮定できるのです。
つまり、ここまでの結論として、筋トレを愛好する人は、他者への共感性という面では、必ずしも豊かであるとは言い難い傾向があると言えるかもしれません。なぜなら、人間は自身が経験してこなかったことについては理解・共感することは難しいからです。
これは私自身の経験からも言えることですが、「見えない」と表現するのが適切です。人生においてうまくいっていない人はすべて「努力不足」としか見えない、ということです。
とりわけ社会的弱者、「何らの努力もしていないように見える人々」に対して、トレーニーが、豊かな共感性を備えているかどうか、となると、難しいのではないでしょうか。
その理由は、筋トレの活動が「自己改善」として自己中心的に進行することが多く、成功を収めた個人がその努力を他者にも強要しがちだからであるといえます。筋トレを楽しんでいることが、他者への共感や支援よりも「自分を高めるための手段」として機能する場合が少なくないため、社会的なつながりや共感に対する感受性が相対的に低くなることは考えられることです。
考察:トレーニーは、なぜこのような思想を持ちやすいのか?
自己効力感の増大
筋トレは「努力が成果に直結しやすい」活動であり、他の分野にもそれを適用しがち。成功体験を積み重ねることで、「自分の力で何でもできる」と思いやすいのではないか。地頭が良い人ならなおさらそのような思考に至る可能性は高いでしょう。
環境要因の軽視
自分が努力して成果を出したため、他人の境遇を軽視しやすい。貧困、病気、障害といった外部要因を「言い訳」と捉えてしまう。
SNSの影響
フィットネス系インフルエンサーの中には、セルフプロデュースを目的とした極端な自己責任論を主張する人がいる。そうした価値観がバズりやすく、フォロワーに影響を与える。
競争的価値観の強化
筋トレ自体が「自分との戦い」であり、競争的な要素がある。強さやストイックさを重視する文化が、競争社会の価値観と親和性を持つ。
「公」がない日本におけるトレーニー
さてここで、話の方向性を変えたいと思います。社会学や社会心理学では、
「日本の社会にはpublicの概念が希薄である」
という提言がしばしばなされます。publicとは「公(おおやけ)」と訳すことができます。これは特に、個人主義と集団主義のバランス、または公私の境界についての議論に関連したものです。
話をトレーニーに戻すと、筋トレを継続するためには「健康」が何よりもまず重要であることはすでに述べました。ではこの健康は、いったいどこからもたらされたのか?自分が健康であることを感謝するとしたら、一体誰に感謝したらいいのか?という疑問が生じます。
海外であれば、「私に健康な肉体をくれた社会」とか「健康をくれた神」といった概念があります。これをざっくり「公」と定義します。では、現代日本にこうした概念は存在するか?
ないのです。
近い考え方としてあるのは「健康に生んでくれた親に感謝しよう」という考え方ではないでしょうか。ですがもちろん、親とは実在の人間のことであり、「公」とは根本的に異なる存在です。さらに日本では「家族内のことはみだりに他人に晒すべきではない」という考え方が支配的であるため、「親に感謝」が具体的な行動として社会において発揮される機会は希少だと言えます。
この、現代日本における「公」の存在の希薄さは、健康な肉体という、多分に運が作用する要素について感謝を対象を私たちに見失わせることになります。公が明確に存在する海外であれば、
- 「健康で筋トレできる肉体を与えてくれた社会に感謝しよう」
- 「心身に障害を持っている人は気の毒だ。運が悪かったら、自分もああなっていた」
- 「何か、自分にできることはないだろうか」
といった、他者への共感性につながると思うのです。それは、自身に幸運を与えてくれた世界に感謝するという謙虚さを持つことでもあります。日本社会が抱える「公」の希薄さが、謙虚さを失い、時に極端な思想を持つトレーニーを生んでいる側面があると私は考えます。
おわりに
私自身、筋トレを趣味として続けてきたトレーニーの一人です。筋トレを通じて、心身の健康を手に入れ、自己成長を感じることができました。しかし、こうした個人的な経験を通じて、筋トレを行うことができる自分の恵まれた境遇に気づくとともに、それが社会的弱者との間に存在するギャップを感じさせられることもあります。
筋トレを愛好するすべての人々が、他者への共感や社会的なつながりに対して意識を持つことは、非常に重要だと思います。特に、運に恵まれず、さまざまな困難に直面している社会的弱者との間においては、自己の成長に固執するだけでなく、他者と融和し、支え合うことが必要です。筋トレで得た健康や力を、自分一人だけのものとするのではなく、弱者に対する共感と理解のもとに、社会全体での協力を深めていくことが大切です。
トレーニーとして、今後は自分の体験を社会的な視点からも活かし、運に恵まれなかったり、社会的弱者として生きる人々と、より良い関係を築いていけるよう努力していきたいと思います。それこそが、筋トレを愛する者としての本当の成長に繋がるのではないかと考えています。
最期までお読み頂きありがとうございました。
- マーケティングや分析の分野で用いられる概念で、特定のターゲット層を象徴する架空の人物像を指す。特定の行動や価値観を持つ典型的なユーザー像を設定することで、より具体的な議論や戦略立案が可能になる。本記事では、筋トレ愛好者の一般的な傾向を踏まえたペルソナを設定し、彼らの思想的傾向について考察する。 ↩︎