日本の社会には『社会復帰』という言葉が軽率かつ軽薄に使われる風潮があります。
今回の記事では「社会復帰」という言葉の裏にひそむ排除のメッセージについて私見を述べたいと思います。
「社会復帰」とは
「社会復帰」を促されたりときに強制されたりする人々というのは、子育てのために休職中の人であったり、障害や疾病などのために仕事ができない人、ときには年金生活の高齢者などが対象となる場合もあります。
「社会復帰」という言葉の問題点は、こうした人々を「社会の一員とは認められない」というメッセージを暗に含むということにあります。
ゆえに日本では資本主義市場(労働市場)でカネを稼いでいない者は社会の一員とは認められず、下級速やかにその状態から脱する努力を強いられています。
「社会復帰」という言葉が伝播する問題は、この「社会復帰」という言葉が日本の社会において、特に資本主義市場における価値基準のみに基づいて使われることによって、特定の人々を疎外し、社会的に孤立させてしまうという問題です。
この問題点をまとめると、以下の要素に分けて考えることができます。
「社会復帰」の意味と背景
「社会復帰」とは、仕事をしていない状態から再び社会的な活動を行い、経済的な自立を取り戻すことを指します。一般的には、職場に復帰することを示唆していますが、その前提には「経済活動を通じて社会に貢献することが社会の一員である証(あかし)である」という固定化された価値観があります。これは「労働賛美」と言い換えることもできるでしょう。
「社会復帰」が示す排除的メッセージ
「社会復帰」を促される人々は、子育て中の休職者や病気・障害によって働けない人々、さらには年金生活を送る高齢者など、資本主義市場における経済活動に参加していない人々です。これらの人々に「社会復帰」を求め、あたかもそうすることが当然であるかのように仕向けることは、暗に、
「経済活動をしていない者は社会の一員ではない」
というメッセージを送り、当事者にあっては社会的な疎外感を引き起こします。
これは、資本主義市場での価値観に基づいて「働かざる者食うべからず」という思想が反映されており、経済的に自立していない人々を、社会の外へと押し出して排除する結果を招きます。
経済的影響と疎外感
高齢者や障害者、育児中の個人などが「社会復帰」という概念を強調されることで、自らが社会の一員ではないという疎外感を強める可能性があります。同時に社会の論調としても「働いていない者は半人前である」という排除の意識が固定化されます。
年金生活の高齢者に至っては「わたしたちは社会の一員ではない」と疎外感を感じ、積極的な消費を控えるようになることから経済面への悪影響も計り知れないものがあります。
SNSなどでしばしば見られる過激な表現を借りるならば、日本の高齢者は、
「社会人としての義務を果たしていない年金生活のジジババは頭を垂れてへりくだって生きていろ」
という圧力にさらされている、ということです。
その結果として、特に年金生活者にとって、こうした圧力や疎外感は、
- 「自分は社会に貢献していない」
- 「自分は社会の一員として認められていない」
- 「私はみんなの足を引っ張っている半人前である」
といった認識につながり、積極的な消費行動を抑制する要因になります。
経済的に非活動的な人々が消費を控えることは、結果的に経済全体に対する悪影響を及ぼし、市場の活性化を阻害することにもなるのです。
資本主義市場と社会的認知
現代の資本主義市場では、労働力が商品として扱われ、その成果(給与)が社会的認知の尺度として用いられます。このため、給与を得ていない人々や市場に参加していない人々は「社会の一員」として認められないという現象が生じます。これが無分別・無配慮な「社会復帰」が促される一因となっており、物理的・精神的に困難を抱えた人々に対して不公平な期待を生み出すことになっています。
おわりに
「社会復帰」という言葉が問題となるのは、この言葉の背後にある排除的な価値観が、社会的な疎外感や経済的な悪影響を生み出すことにあります。資本主義的な枠組みだけでなく、社会全体の価値観として、誰もが社会の一員として認められる仕組みを作ることが重要です。
そのためには、働かない人々や経済活動に参加しない人々にも、社会の一員としての価値を認める社会的枠組みを再構築する必要があります。かつての時代と同じやり方で「言葉狩り」によって「社会復帰」という言葉を社会から抹殺し、体裁のみを取り繕うなどといった方法ではこの問題は解決しません。
「社会復帰」という言葉の無自覚な使用が引き起こす社会的な影響を再評価し、より包括的な社会を目指す必要性を提起してこの記事を終わりたいと思います。
最後までお読み頂きありがとうございました。