人生を(コンピューター)ゲームに例えると、最初に選べる難易度は人によって違います。
近年生まれた言葉に「親ガチャ」という言葉があります。「親ガチャ」とは、生まれる親や家庭環境を自分で選べないことを「ガチャ(カプセル玩具のランダム要素)」に例えた言葉です。

「親ガチャ」とは、裕福な家庭や理解のある親のもとに生まれれば有利な人生を歩みやすい一方で、貧困や虐待などの厳しい環境に生まれると苦労が多くなるという現実を指摘する概念です。特に、日本では自己責任論が根強い中で、努力だけでは克服しにくい生まれつきの格差を表現する言葉として広まりました。
一方で、「運に左右される部分はあっても、努力次第で道を切り開ける」「親を敬う心を欠いた表現だ。けしからん」などといった意見もあり、「親ガチャ」は常に議論を呼ぶテーマでもあります。
今回は、現代日本における個人の人生と、人生というゲームには難易度が存在するという事実をなぜ多くの人々が認識できなくなってしまうのかについて、ゲームの難易度に例えて説明してみたいと思います。
ゲームは長年にわたって私のかけがえのない趣味の一つですが、そんな私とは違った、ゲームに詳しくない人にも極力わかりやすく解説してみたいと思います。
ゲームにおける難易度とは

ゲームにおける「難易度」とは、プレイヤーがゲームを進める上で直面する挑戦の度合いの高さ・困難さを指します。多くのゲームでは、初心者向けのイージーモードから、熟練者向けのハードモードまで幅広い選択肢が用意されており、ゲーム開始時にプレイヤーが難易度を選択できるシステムを採用しています。
難易度の違いは、敵の強さ、活用できる資源の量、攻略の難しさなど、さまざまな要素に影響を与えます。


ここではまず、「同じゲームであっても、選ぶ難易度によってプレイヤーの体験は全く異なったものになる」という点をおさえていただきたいのです。
人生というゲームの難易度
では次に、人生というゲームの場合、個人が生まれた階級の違いによって生じる結果をゲームになぞらえると、どのような難易度となるかを見てみましょう。
富裕層(イージーモード)
富裕層の家庭に生まれた人は、ゲームの難易度においては完全なイージーモードに例えられます。最初から高性能な装備(教育、お金、人脈)を持っています。そのため、以下のような有利な点があります。
- 質の高い教育を受けられる
- 親の財産や人脈による支援がある
- 失敗してもリカバリーしやすい環境が整っている
一方で、イージーモードであるがゆえに、「努力すれば誰でも成功できる」という誤った考えに陥りやすく、他の難易度で生きる人々の苦労を理解しづらい傾向があります。この典型的な例は例えば
「私は小学校から塾に通い、家庭教師をつけて猛勉強して努力を重ね、一流大学、そして一流企業に入った。やる気になれば誰でもできますよ」
といったものです。ここでは「塾や家庭教師といった教育への投資を行えるだけの財力が親にあった」という前提、つまり本人が有能さを示したり何らかの努力をした結果ではなく「運のみ」で得られた特権を前提条件とした努力であったという事実がほぼ無視されています。
そして、そうした教育支出をどうしても行うことができない家庭も社会には存在するのだ、という認識が抜け落ちてしまっていることが伺えます。
中間層(ノーマルモード)
中間層の家庭に生まれた人は、ゲームにおけるノーマルモードに例えられます。基本的な装備を持ちながらも、努力次第で成功を掴めるチャンスを与えられた環境にあるといえます。
- 一定の教育を受ける機会がある
- 生活に困らない程度の経済基盤がある
- 努力すれば社会的な成功を得られる可能性がある
ただし、激しい競争の中で努力を続けなければならず、加えて富裕層と比べると失敗した際のリスクが大きくなります。状況によっては二度と再チャレンジの機会が得られないことも珍しいことではありません。
この階層は激しい競争にさらされており、「いつ下の階層に叩き落とされるか」という不安に怯えている人も少なくありません。そうした背景から、中間層の人々による、より下の社会階層の人々に対する攻撃は富裕層のそれよりも苛烈になる傾向があります。
貧困層・毒親家庭(ハードモード)
貧困層や毒親1家庭で育つ人は、ゲームのハードモードに近い厳しい環境に置かれています。貧困だけですでにハードモードですが、これに毒親という条件が加わるとさらに過酷さは高まり、「ベリーハードモード」、「エクストリームハードモード」といった表現がふさわしい極めて劣悪な条件でゲームを始めなければならなくなります。
- 教育を受ける機会が限られる
- 経済的な余裕がなく、選択肢が少ない
- 親が反知性主義の持ち主であることも少なくない
- 家庭環境が悪い場合、精神的・肉体的な負担が大きい
- 努力しても社会的な成功が極めて困難
このような環境にある人は、たとえどれだけ努力しても報われない場合が多く、精神的な負担も大きくなりがちです。ハードモードのあまりの過酷さに精神を病んでしまうケースも多い。まさにイージーモードの対極のハードモードであるといえます。
なお、毒親については以下の記事もご一読ください。
人生が難易度別であるという事実が見えなくなる原因
さて、ここまでこの記事をお読みになった方の中には、以下のような感想をお持ちの方がおられるのではないでしょうか?
「こんなことは言われるまでもなくわかっている。そもそも人生とは不公平なものだ」
「生まれによって不公平が生じるなんて当たり前だろう。なんら斬新な提言ではない」
たしかに現代の日本、いや人類の社会全体においては、平等が実現されているとはいえません。私はいずれ人類は階級や不平等を克服し、真の平等を手にするはずだと信じていますが、それはまだ人類には手の届かない望みなのでしょう。
ですが、私がこの記事で取り上げたかったことは、人生が難易度別であるという、誰もが承知の事実をあらためて大げさに取り上げることではありません。
私が本当に取り上げたいこと、皆さんに本当に考えていただきたいことは、
「人生が難易度別である事実が見えない人々がいる」
という事実なのです。
ある一つのゲームがあるとします。イージーモードでこのゲームをプレイする人は、
- 「このゲームは努力すればクリアできるのが当たり前」
- 「めちゃめちゃヌルい(簡単な)ゲームだな。こんなのクリアできない人いるの?」
などという感想を抱くかもしれません。
いっぽう、同じゲームをハードモードでプレイした人は、
- 「こんな難しいゲーム、クリアできるわけないよ…」
- 「無理ゲーじゃね?最初の条件がキツすぎる」
といった、ハードモードでプレイした人とは全く逆の感想を抱くかもしれませんね。
話がコンピューターゲームの場合であれば、難易度については以下のように明確に示されていることが普通です。
- イージーモード
- ノーマルモード
- ハードモード
これは、プレイヤーはゲームを開始する前に「このゲームは難易度別なんだな」「難易度が高いほどクリアが難しくなるんだな」という事実を知らされるということです。
イージーモードでクリアした人と、ハードモードでクリアした人とでは、双方が感じたゲーム体験や、このゲームがどういうゲームなのか、という評価も全く異なるかもしれません。
しかしそれでも、大した問題にはなりません。なぜなら、事前に難易度が提示されており、プレイヤーが自分の意志で難易度を選択したという前提があるからです。
つまり「君はどのモードでプレイしたの?」「私はイージーモードだよ」という会話をするだけでお互いが経験してきたゲーム体験を共有し、お互いの立場の違いを明確に認識することができます。
「何だイージーモードかよ、簡単じゃん、私はハードでクリアしたけどね」などという牽制の仕合いは行われるかもしれませんが、それとて大きな問題ではないのです。逆に「ああ、この人はゲームが苦手だからイージーモードでしか楽しめない人なんだな。不憫だな」という哀れみに近い思いやりの情を相手に抱く人もいるかもしれませんね。
人生の難易度は、より見えにくいのが問題

さてここで問題になってくるのは、人生の難易度はゲームのそれよりもずっと複雑で、見えにくいということです。その見えにくさのために、人生の難易度は複数存在し、その難易度は生まれた境遇によって左右されることが大きく、生まれた環境の影響は個人の努力では覆せないほど巨大である、という、当たり前の事実すら見えなくなってしまうのです。
恵まれた環境に生まれ、イージーモードで人生というゲームをプレイしてきた人は、人生というゲームに対してこんな感情を抱いても不思議ではないであろうことは既に述べました。
- 「なんて簡単なゲームだ」
- 「努力すればすべて自分の力になる。素晴らしいゲームだ」
- 「主体的に行動すればみんなが認めてくれる。素晴らしい」
もしこの人が、人生というゲームが難易度別であることを知らずに育ったとしたら、すべての人々が自分と同じ難易度を与えられてゲームに参加していると勘違いしたら、次には何が起きるでしょうか?
- 「こんな簡単なゲームをクリアできないなんて、努力不足じゃないか?」
- 「こんな簡単なゲームをクリアできない人は劣っているのだろう」
- 「劣った人が増えると生産性が下がり社会が弱体化する」
「自分の人生はイージーモードでスタートした」 という事実を知らないとなると、こうした発想につながっていくことはある意味、無理もないことといえます。
難易度を見えなくさせるものは多様性の欠如
人生というゲームの難易度が人によって全く違うという厳然たる事実を理解することを難しくさせる原因のひとつは、多様性の欠如です。 これは初等教育や中等教育の段階からいわゆる進学校にて教育を受けた人によく見られることです。
自分と同じようなバックグラウンド・社会的階級を持つ親の下に生まれた、自分と同じような子どもたちとしか交流したことがないため、別の階層の人々のリアルがわからない。
イージーモードの人生の難しさしか知らない人が、同じような体験しかしていない人とばかり接していると、「誰もが同じヌルい条件でこのゲームをプレイしている」と思い込んでしまうのです。
こうした人の中には、「幼い頃から塾に通い、家庭教師をつけ、猛勉強して努力した」と自慢げに話す人がしばしば見られますが、これは、社会の中には夜に子どもが勉強するために使う灯りの電気代すら捻出するのに苦労する家庭も存在するのだ、という前提が抜け落ちた「井の中の蛙」的な自画自賛といえます。


このような多様性を欠いた環境が生じさせる背景によって、そもそも人生というゲームにはハードモードが存在するという事実を認識できなかったり、ハードモードでプレイを強いられている人々のことを努力不足と誤解したりといったことが起こります。
難易度とプレイヤーの視点の違い
ゲームの難易度は、プレイヤーの視点によって大きく異なります。イージーモードでプレイしている人にとっては、「ゲームは努力すればクリアできるもの」という認識が生まれがちですが、ハードモードで挑戦しているプレイヤーにとっては、努力だけでは乗り越えられない理不尽な壁が存在することを実感するでしょう。
このような違いは、ゲームの中だけでなく、人生というゲームにも当てはまります。人生をゲームに例えたとき、すべての人が同じ条件でスタートするわけではありません。生まれながらにして高性能な装備(教育、お金、人脈)を持っている人もいれば、ほぼ裸一貫でスタートする人もいます。イージーモードで育った人が、ハードモードの存在を認識できないことが、社会の理解不足を生む要因のひとつになっています。
おわりに - 多様な難易度の存在を理解することの重要性
人生というゲームにおいて、異なる難易度で生きる人々の存在を理解することは非常に重要です。ハードモードでプレイした経験がある人ほど、初心者や難易度の高い環境で苦しむプレイヤーに対して共感を示すことができます。
逆に、自分がイージーモードで人生をプレイしてきたことを知らず、それどころか人生というゲームには厳然たる難易度が存在するのだという事実すら認識できていない人が、もし社会のリーダーに多く存在するとしたら、それは非常に危惧すべき恐ろしいことです。
人生というゲームにおいて、自分がどの難易度で人生をプレイしているのかを自覚し、異なる環境にいる人々の状況を理解することで、より公平で支え合える社会を築くことができるのではないでしょうか。
ゲームにおいては難易度を事前にプレイヤーが決めることができますし、一度決めた難易度が自分には合わないと感じたら、やり直すこともできます。しかし人生というゲームの難易度を決めるのは、運だけです。やり直すこともできないのです。
最後までお読み頂きありがとうございました。
- 子どもに対して過度に支配的、批判的、または虐待的な親を指す言葉。「毒親」という表現は、子どもが親から受ける精神的・感情的なダメージが、まるで「毒」に似ていることによる。「毒親」という言葉の起源は、アメリカの心理学者スーザン・フォワードの書籍「毒になる親」(1990年)。本書籍では、毒親の特徴やその影響について詳述し、親との関係を癒すための方法を提案している。 ↩︎