「頑張った人が報われる社会を目指す」
これは近年、若者受け・中~高所得者受けを狙う政治家によってしばしば使われる表現です。
私の考えでは、これは非常にまわりくどく、かつ「努力しなかった者には救済の余地はない」という冷酷さ、排除のメッセージを含んでいるため、陰湿ですらあります。
このような、まわりくどく、かつ遠回しに排除を行うような表現ではなく、私は、
「私、親が太くてラッキーだった」と胸を張って言える社会
を実現するべきだと考えます。
今回の記事では、この観点から私見を述べたいと思います。
金持ちが庶民のふりを強いられる社会
現実逃避でしかない「みな平等」
日本では、悪しき「みな平等」意識がいまだ支配的です。まずこの風潮の背景を手短にまとめてみたいと思います。
戦後の教育改革と「機会の平等」
戦後のGHQ主導の教育改革によって、日本は「機会の平等」を重視する方針を採用しました。これにより、それまでの旧制教育(エリート教育)から、新制の義務教育制度(6・3・3制)が確立され、「誰もが努力次第で成功できる」という理念が広まりました。
特に1960年代以降、高度経済成長とともに「中卒・高卒でも努力すれば成功できる」という個人における成功事例が増え、学歴・家柄よりも「努力」や「能力」が重視される社会が形成されました。この結果、「格差を感じさせることは良くない」という価値観が定着しました。
高度経済成長と「一億総中流」意識(1970年代〜1980年代)
1970年代になると、日本は経済的に豊かになり、「一億総中流社会」という言葉が広まりました。「みんなが中流であるべき」「極端な格差は望ましくない」という考え方が、政府・メディア・教育の場で強調されました。これにより、「格差の存在を認めるのは悪」「格差を感じさせないことが善」という意識が社会に定着したのです。
この時期から、特に公教育の場では「家庭の経済状況の違いを強調するのは好ましくない」とされるようになりました。
バブル崩壊後の「平等意識の強化」(1990年代以降)
1990年代のバブル崩壊後、日本経済は長期停滞に入りました。その結果、雇用の安定性が失われ、格差が広がる懸念が強まりました。これに対し、政府や教育現場では「社会の分断を防ぐ」ために、平等主義的な政策が一層強調されるようになりました。
- ゆとり教育(「競争を避ける」傾向の強化)
- 内申点重視の制度(努力や協調性を重視し、能力格差を表面化させない)
- 公立学校での制服・持ち物の統一(経済的差異を目立たせない)
2000年代以降、格差社会が問題視される一方で、日本は「格差を議論すること自体がタブー化」する方向に進みました。「格差はないものとして扱うほうがよい」「格差を公言すると社会の分断を助長する」という考え方が強まったのです。この時期以降、「子どもたちに格差を感じさせるのは良くない」という意識がより強固になったといえます。
「努力や苦労は尊いもの」という文化
日本では、努力や苦労を尊ぶ文化が根強いため、親の財力によって成功したことを素直に認めることが憚られるのです。だから個人の成功要因のすべてを「努力の結果」とする必要がある。だから「親が太いから成功できた」と事実を堂々と言えない。私たちはこの問題をずっと引きずっており、いまだに克服できていない。
要はお金持ちが「うちなんてお金持ちでもなんでもない」ふりを強いられる社会なのです。これは格差から目を背け、偽りの「みな平等」の価値観を強いられている状況といえます。
「弱者性」の証明を強いられる社会
現代は人々が「弱者性」を競い合う社会である、という側面があると思います。何を競い合うのかというと、それは再分配の優先権です。あらゆる人々が「私は大変な状況にある!ケアが必要だ!」「いやいや私のほうが大変だ!ケアはこちらに回せ!あいつらに回すな!」と牽制し合う社会です。
こうした背景によっても、個人が「私は恵まれた環境に生まれた強者である」と明言することを難しくしています。明らかに恵まれた環境に生まれた人もそれを誇ることができず、自己の境遇からなんとか恵まれていない部分を見つけ出し、それを強調することを強いられているといえます。
「たしかにうちは裕福だった。けど親は私の意見を一切、聞いてくれなかった」というのがこの典型的な例です。
こうした社会のありようもまた、恵まれた人々が恵まれなかった人々を理解することを遠ざけている一因です。
格差を直視するべき
人間の歴史を振り返れば、誰にでも理解できる一つの事実があります。それは「人間は格差を克服できていない」という事実です。体裁だけを整えた「みな平等」をゴリ押しすることは、現実から目を背け、皆にとって極めて不自然で無理な思考や行動を強いているということです。
近年、猛威を振るう「自己責任論」や能力主義(メリトクラシー)の暴走といった現象は、不自然で、かつ悪しき「みな平等」への反発、抵抗という面があると思うのです。
ですので、格差から目を背けるべきではなく、むしろ直視すべきと私は考えます。
もちろん、あまりに格差が拡大してしまえば民主制は成立しなくなりますし、社会の不安定化などの様々な弊害が起こります。ですので格差を直視して認めようと言っても、それは程度の問題です。
格差はある。人は生まれながらに平等ではない。さらに日本においては機会の平等が万人に与えられているという状況には程遠い。それはすぐに解決できることではない。この事実から目をそらし、皆が偽りの「みな平等」の仮面をかぶることで、より問題が陰湿化しているといえるのです。
「話が通じない人たちの子どもとは、私の子供を関わらせたくない」
だから中学受験なのです。こうして分断は進行します。
「自分は運が良かっただけ」と自覚した人は他人に優しくなれる
親の太さを堂々と誇れない社会だから、陰湿化してしまうのです。本来なら恵まれた環境に生まれた人は「私は運が良かっただけ」と素直に認めれば、恵まれなかった人に優しくなれるのです。
しかし、日本ではその事実を隠す必要があるため、むしろ嫉妬や不満が蓄積し、弱者に対する敵意となる。
欧米では「自分は運が良かっただけ。だから社会に還元する」という価値観が一般的ですが、日本では「自分も苦労したことにしなければならない」ため、富裕層の社会貢献意識が育ちにくいのです。海外のセレブはみな、積極的に寄付をしている事実に目を向けてみてください。
2024年に米国のカリフォルニア州ロサンゼルスで発生した大規模な山火事にあたり、富豪のパリス・ヒルトンは自身の自宅も消失したにもかかわらず、多額の寄付をしています。
おわりに
格差から目をそむけ、形だけの「みな平等」を強いられる社会が、私たちに分断と増悪をもたらしています。私たちは今こそ、この事実を直視することが求められています。
最期までお読み頂きありがとうございました。