発達障害は「障害」か「個性」か

「発達障害を個性とするか障害とするか」という議論はしばしばなされます。

今回の記事では、このテーマについて私見を述べたいと思います。

日本の縦割り行政から考えてみる

日本の医療と福祉は伝統的に縦割り構造が強く、それぞれの分野での専門性が重視されるため、特定の問題について「障害」として扱うか「個性」として扱うかによって、関与する機関や専門家が変わるという傾向があります。

この医療と福祉の縦割りという構造から考えるならば、「障害」とするなら診断や治療が主な焦点となり、医師や医療機関の役割が大きくなります。言い方を変えれば医師の権力と影響力が増大するということです。

「個性」とするなら支援や適応が重視され、福祉、教育、または自己啓発的なアプローチが中心となるでしょう。具体的には福祉領域職やカウンセリング、ライフハックコーチ、その他様々な民間療法などの周辺領域の影響力が増すことになります。

発達障害の定義と捉え方

1.医療と福祉の連携不足の課題

発達障害は「障害」と「個性」のどちらか一方に縦割りで限定されるべきではなく、医療と福祉、教育など多分野の連携が不可欠であると考えます。この縦割り構造が問題視されることが多いのも事実です。

2.個性としての捉え方のリスク

発達障害を「個性」として過度に強調しすぎると、医療や診断を軽視する傾向が生まれるリスクがあります。適切な支援が受けられないケースが発生する可能性もあります。

3.利用者主体の視点

発達障害をどう捉えるかは、本人やその家族がどのような支援を必要としているかに基づくべきです。「障害」としての医療的支援と、「個性」としての社会的適応支援は排他的ではなく、両立すべきものだと私は考えますが、日本の縦割り行政/縄張り行政がその現実を妨げている側面があります。

現時点では「障害」としておくほうがいい

私は個人的には、発達障害は当面の間「障害である」とすることが全体の幸福のためには良い方向性であると考えます。その理由は、

  • 「発達障害は個性」というメッセージを打ち出していくと「個性なら定型発達者と対等だよね?」という風潮が生まれ、障害年金を始めとした支援政策の対象から外されるなどの弊害が起こることが考えられる
  • 現在の社会は発達障害者を個性として受け止められるほどに理解が進んでいない
  • したがって現時点で「発達障害は個性である」と打ち出すことは発達障害者にとって不利益な状況となるおそれがある

といったものです。

この記事を書いている2025年1月現在、多くの子供達が人生のごく早い段階で発達障害の診断を受け、公的な支援を受けられる土壌が整いつつあります。完全に放置というか生きづらさが認識すらされない世界で半世紀近くを生きてきた私からすればまさに隔世の感があります。

私は「大人の発達障害」という言葉は、今を生きる子どもたちが受けられるような支援を受けてこられなかった私のような大人の存在を可視化し、支援の道筋を探るために作られたと考えています。

今の子供達がシニアになる頃には、私達の世代の人々は世を去っており、「大人の発達障害」という言葉も亡くなっていることでしょう。発達障害は個性であると打ち出していくのは、それからでも遅くはないのではないでしょうか。

おわりに

今回の記事では、「発達障害をどうとらえるか」という観点から、日本における医療と福祉の縦割り構造を反映した問題提起をしました。

ただし、「障害」と「個性」のどちらに重きを置くべきかを一義的に決めるのではなく、発達障害を持つ人々の多様なニーズに対応できる包括的なアプローチも重要となると私は考えています。行政には国民のためにならない縄張り意識を超越して、困っている人のための政治を行ってほしいと願います。

最後までお読み頂きありがとうございました。

タイトルとURLをコピーしました