ベーシックインカム(以下、BI)を実現するための議論を経済学の専門家に委ねることには大きなリスクがあります。
今回の記事では、BIの実現の議論を専門家に丸投げすることの問題点について私見を述べたいと思います。
丸投げの害
経済学に限らず、専門家は、その特定分野のフレームワークや既存の理論に基づいて思考することに長けていますが、それが新しい社会システムを構築する際にはかえって障害になることがあります。この記事では、この問題点を掘り下げ、BIの実現に向けた議論の主体がどのようにあるべきかを考察します。
専門家の限界:フレームワークの罠
専門家は高度な知識とスキルを持っていますが、それがしばしば彼らの視野を狭める原因となります。経済学者を例にとると、彼らは主に既存の経済モデルや財政政策の範囲内で議論を展開します。このフレームワーク自体が、BIのような革新的な概念を受け入れるのを難しくしているのです。
日本においては主流派経済学者の多くは「緊縮財政論」を支持しています。彼らをBI実現の議論の「主役」にすえてBI実現の議論を「丸投げ」することは良い結果を生むとは思えません。主流派経済学者と異端とされる経済学者を一同に集めて議論させたとしても、経済学のフレームワーク内での論争に主治し、BI実現に向けた議論は平行線をたどり、一向に進展しないという状況も大いに予想されることです。
加えてメディアが「最近はBIについて議論が盛んなようですが、先生のご意見は?」などと著名な経済学者にインタビューをして、「なるほど東大の教授が言うのなら間違いない」などと、あたかもその経済学者の意見がすべてであり正しいのだという認識が流布されてしまうことに注意しなければいけません。
さらに、専門家には自らのキャリアや業界内のポジションを守りたいという共通した心理的な動機があります。このため、既存のパラダイムに挑戦するようなアイデアに対して防衛的になりがちです。結果として、BIのような新しいシステムに対する議論は封殺されるか、慎重すぎる態度によって進展を阻まれる可能性があります。
知識人の世界からも多様性が失われている
日本においては、経済学者などの知識人層が実質的に世襲制を受け継いでいるという側面があります。これは、学歴や社会的地位の高い家庭に生まれ育った人々が、知識人としての地位を引き継ぎやすい現象を指します。
親が高学歴で高所得の家庭の子どもは、教育機会をより多く得ることができ、その結果として学術的・文化的なエリート層に進む可能性が高くなります。逆に、低学歴や低所得の家庭からは、知識人層への進出が困難になり、この格差は世代を超えて再生産されることが多いです。
背景には日本の格差拡大がある
この現象の背景には、近年の日本社会における格差拡大があります。1990年代から続くいわゆる「失われた30年」により、日本経済は長期的な低成長に苦しんできました。この経済的停滞は、教育機会の不平等を悪化させ、社会全体の格差を拡大させました。
家庭の収入や親の学歴が高いほど、子どもの教育資源に対するアクセスが増え、学力向上の可能性が高まる一方で、経済的に厳しい家庭の子どもたちは、十分な教育を受けることが難しくなり、社会の上層に進出することが難しくなっています。
この格差は、知識人層を形成する過程にも影響を与え、結果として知的エリート層のバックグラウンドが似たようなものに集中することになります。
多様性を欠いた領域に属する人々にはエコーチャンバー現象が発生する
このように知識人層の多様性が失われることは、社会にとって大きな問題を引き起こします。エリート層が同じようなバックグラウンドを持つと、意見や思考の幅が狭まり、革新的なアイデアや多様な視点が生まれにくくなります。
こうした現象は、「エコーチャンバー現象」と呼ばれ、似たような意見や価値観を持った人々が集まることで、異なる意見や視点が排除され、閉鎖的な環境が生まれることを意味します。
このような環境では、新たな発想が生まれにくく、社会的な問題に対する柔軟で多角的な解決策が生まれない危険性があります。
「現代の学者がどれだけ激しい生存競争にさらされているか知らんのか?世襲制など進んではいない」
と感じた方もおられるでしょう。
たしかに、研究成果を巡る競争が激化する中、学者の生存競争は確かに厳しくなっています。しかし、そのような厳しい環境でも、知識人層における世襲制が進んでいないという見方には疑問があります。
じっさい、親の学歴や社会経済的背景が、学者としてのキャリアにおいて重要な要素であることは否定できません。学者としての地位やネットワークは、時に世代を超えて受け継がれ、特にトップクラスの大学や研究機関では、特定のバックグラウンドを持つ人物が有利な立場に立ちやすくなる傾向があります。
もちろん、すべての学者がそのような状況にあるわけではありませんが、知識人層の中で多様性が失われつつある現実は存在していると私は考えます。BIのような極めて大きな社会変革の実現可能性を議論するにあたり、多様性を欠いた集団を議論の主役にすえることは正しい選択とはいえません。
BI実現に必要な新しい視点
BIのように、すべての人に生存権を保障し、労働からの解放を目指すシステムは、専門家だけでなく幅広い社会の声を反映させるべきです。この理由として、次の3点が挙げられます。
多様な視点の必要性
専門家に限定された議論は多様性を欠き、真に普遍的なシステムの構築を妨げます。一方で、一般市民の視点を取り入れることで、より包括的で現実的な制度設計が可能となります。
現場の知識の重要性
実際に労働や生活に直面している人々が持つリアルな体験は、BIの実効性を検証する上で不可欠です。専門家の分析だけでは見落とされがちな生活者の視点が、制度の成功に直結します。
社会全体の合意形成
BIは社会全体を巻き込む大規模な変革であり、特定のグループだけで決定できるものではありません。広範な議論を通じて、多くの人々がその理念に共感し、支持することが重要です。
専門家の正しい活用法
誤解していただきたくないのは、私は専門家を完全に排除すべきと主張しているわけではない、ということです。専門家はそれぞれの専門分野において重要な役割を果たすことは間違いないのです。
具体的な設計と実行の支援
BIを具体化する際、財源確保や運用システムの設計など、専門知識が必要な分野での貢献が期待されます。
データに基づく検証
専門家のスキルは、実証データをもとにBIの効果や課題を明らかにする上で欠かせません。
ただし、BIの実現可能性や意義そのものを議論する段階では、専門家に頼りすぎるべきではありません。議論の主導権を広く一般市民に委ね、多様な視点を反映させるべきです。
おわりに
ベーシックインカムは、単なる経済政策ではなく、社会の根本的な価値観を再定義する取り組みです。その実現には、専門家の意見を超えて、何の専門家でもない一般市民が主体となって議論を進めることが必要不可欠です。専門家は議論を補助する役割にとどめ、私たち一人ひとりがその理念と可能性を理解し、共に考える場を作り上げていくことが大切です。
この取り組みこそが、全ての人に生存と、「働かない自由」を保証する社会への第一歩となるのです。
最後までお読み頂きありがとうございました。