【生活保護と医師】「奴隷になりたくない」「自由でありたい」と叫ぶと狂人扱いされる社会【ナチス・ドイツの医師たち】

先日、Xで目にしたこのポスト。私がかねてから抱えてきた思いを見事に言語化されていたので紹介します。

現代の日本では、「働かない自由」は認められていません。それはつまり、不労所得を生み出す資本を保有していない個人が、

  • 「奴隷になりたくない」
  • 「自由でいたい」

などと、人間として当たり前の望みについて叫ぶと、社会からさまざまな手段によって迫害を受けたり、あるいは狂人として扱われる狂った社会になっているのが実情です。

「働きたくないなら日本には生活保護があるではないか」

と思った方もおられるでしょうが、生活保護は数多くの問題を抱えた制度であり、これをもってして「働かない生き方も認められている」とは、とうてい言えるようなものではありません。

今回の記事では、このようなテーマで、実際に生活保護で10年を生き延びた経験を持つ私が、生活保護制度の問題点のあらましと、生活保護制度と医師のモラルについて私見を述べたいと思います。

生活保護制度の問題点

現代の日本における生活保護制度は、多くの欠陥を抱えたまま運用されており、特に「働かない自由」は事実上認められていません。この制度は、生活保護受給者への著しい差別や人権侵害を助長するものとなっています。

また生活保護制度においては、保護の認定や継続における判定において医師の発言力と権力が過剰に大きな影響を持つ仕組みとなっています。

生活保護の認定や継続支援のプロセスでは、医師の診断や意見が重要な要素となり、これがしばしば個人の「働きたくない」という人格や意思を無視した形での就労指導を支える役割を果たしています。

これは、医師個人が、

就労が個人の幸福実現や人格の尊重よりも優先されるべき

という社会的前提に立って行動することを強いられる状況を反映しています。この前提はいうまでもなく、個人の価値観や状況に対する尊重が欠如する可能性があります。

医師がこのような前提のもとで医療行為を行う背景には、以下のようなものがあります。

自立支援重視の政策

日本の生活保護制度は、生活困窮者に対する最低限度の生活を保障する一方で、受給者が自立することを目標、ないしは暗黙の至上命題としています。自立支援の一環として就労促進が強調されており、特に2000年代以降、政府は就労支援プログラムや制度改革を通じて「働ける人は働くべき」というメッセージを強化し続けています。

行政によるこうした強力なメッセージから医師も自由であり得るはずはなく、患者の自由意志に反して「とにかく働かせろ」の側に引っ張られる可能性があることはいうまでもありません。

生活保護受給者に対するネガティブな社会的スティグマ(差別・偏見)

日本では生活保護受給者に対する、

  • 「みな一様に怠惰である」
  • 「努力不足」
  • 「ビシビシと叩き直して矯正する必要がある人々」

などといった誤った偏見が広がっており、医師を含む支援者に無意識的に影響を与えることは十分に考えられることです。その結果として、受給者が経済的な自立を目指すことが、心理的・社会的な圧力として働き、「就労が幸福に結びつく」との固定観念が生まれる可能性は十分に考えられることです。

医療制度の影響

日本の生活保護制度の下では、生活保護受給者は医療費が免除されます。このため、受給者の医療費を社会全体で負担する仕組みが存在し、その結果として医療機関側に「受給者に対する治療は社会的コスト」という意識を植え付ける場合があります。

こうした認識は、「失われた30年」の間ずっと「日本は財政破綻の危機にある」と国民の危機感を煽り、緊縮財政政策を続けている財務省主導の政策によって著しく強化されてきたといえます。

こうした背景から医師が「就労による健康改善」を優先する姿勢をとることで、結果的に医療費削減や患者の自立を支援している、つまりは「私は正義を行っている」と誤った認識を持つことは自然な成り行きだといえるでしょう。

患者の人格を無視した就労促進

医師による就労の促進の問題

うつ病や適応障害など、精神的疾患を抱える患者に対し、「働くことで生活リズムが整い、気分が改善する」などといった理由で、症状の程度に関わらず就労を推奨するケースがあります。これは当事者として私も多々、経験してきたことです。

さあ、とにかく一歩踏み出しましょう!

というやつですね。

「地獄への道は、善意で舗装されている」

ヨーロッパの格言

例えば、いまだ十分な休養が必要な状態であるにもかかわらず、「このくらいの症状なら働ける」と断定し、早期の復職を促してしまう場面があります。

患者の希望や状況の無視

慢性疾患を抱える患者が、「症状の管理が最優先であり、現時点での就労は困難」と訴えても、医師によって「仕事ができない状態では社会的な役割が持てない」などと時に強弁にて説得される場合があります。

就労が患者の幸福実現を妨げる例

福祉事務所と医師が連帯して患者に就労を強制した結果、症状が悪化したり、就労環境が患者にとってストレスとなり再び治療が必要になるケースも存在します。

医療制度との兼ね合い

医療費負担の視点

生活保護受給者が就労することで医療費負担を軽減するとの考え方は、医療制度の経済的側面のみを強調したものです。しかしこの考え方には、患者の回復や生活の質の向上を軽視し、長期的な視点での社会的コスト(再発、治療の長期化など)をむしろ増加させるリスクがあります。

医療と生活支援の分断

日本では国民皆保険制度と生活保護制度は別個に運用されており、医療現場では患者の生活状況への包括的な理解が不足する場合があります。その結果、医師が就労促進を行う際に、患者の社会的背景や経済的状況が十分に考慮されないことが生じます。

医療者教育の課題

医療従事者への教育において、患者の価値観や生活背景を尊重する「患者中心の医療」の重要性が十分に強調されていないことも、こうした問題の一因とされます。

ナチス・ドイツ政権下における医師との共通点

日本の生活保護受給者と医師との関係性が描くこのような構造は、ナチス・ドイツ政権下のドイツにおける医師が、「国家の利益」や「人種衛生」の名のもとに人権や倫理を歪めた状況と、ある種の共通点を示しています。

当時のドイツの医師たちは、医学の倫理や「ヒポクラテスの誓い1」を捨てて国家や体制に従属し、ある者は間接的に、ある者は直接的に虐殺や選別に関与しました。

同様に、現代の日本の医師たちもまた、「就労こそが社会の利益であり、個人の幸福を超える価値を持つ」という誤った前提のもとで、個人の意思を尊重することよりも、制度や社会の期待に応える行動を取らざるを得ない問題を抱えています。

こうした結果として、医師が本来持つべき個人尊重の立場が損なわれ、生活保護制度そのものが持つ抑圧的な性質を助長しています。これにより、働かない自由や多様な生き方を認めない社会的価値観が固定化されてしまい、生活保護を必要とする人々に対して非人間的な対応が続けられる現状が生まれているのです。

ナチス・ドイツの医師たちの言い訳と自己正当化

命令遵守の主張

ナチス・ドイツ政権下で活動した多くの医師は、

「自分たちは単に命令に従っていただけだ」

と主張しました。

ナチス・ドイツでは、軍人や公務員が上官の命令を遂行することが義務とされており、これを拒否すれば自分自身が罰せられる可能性があると考えていた医師もいました。しかし、命令に従うことを絶対視したこの姿勢は、ニュルンベルク裁判において「命令の遵守が犯罪行為の免罪符にはならない」として否定されています。

「人種衛生」の理念への同調

医師の一部は、ナチスの「人種衛生」イデオロギーに基づき、自分たちの行為を正当化していました。彼らは、ユダヤ人や障害者、その他の「劣等人種」を排除することが、社会全体の「健康」を促進すると信じていました。この思想は、当時の医療教育やプロパガンダによって強化されていました。

政治家や大手オールドメディアによる「生活保護バッシング」などのプロパガンダによって危険なイデオロギーが強化され、医師もその影響を受けるという点では、現代日本の状況と合致するといえます。

役割の限定を主張

一部の医師は、自分たちが単なる「医学的判断」を下す役割を担っていただけであり、ガス室や殺戮そのものには関与していないと述べました。この主張は、彼らが殺人行為への関与を矮小化するための言い訳と解釈されています。

「ヒポクラテスの誓い」との折り合い

ヒポクラテスの誓いは「患者に害を及ぼさないこと」を基本原則としていますが、ナチス時代の医師たちは、以下のような形でその倫理的矛盾を「解決」していました。

ゆがんだ医学的倫理の採用

ナチス体制下では、「国家の利益」や「人種の純粋性」が医療倫理の中核として位置づけられました。一部の医師は、個人の命よりも「国家全体の健康」を優先することが正しいと信じ、ヒポクラテスの誓いを曲解または放棄しました。

この構図は、患者の意思よりも「社会全体の健康」を優先する現代の日本の状況に類似しています。

非人間化

ユダヤ人やその他の被収容者を「人間以下」の存在とみなすプロパガンダが広まり、医師たちは彼らを患者ではなく、単なる「症例」や「問題」として扱うことが容易になりました。この非人間化によって、ヒポクラテスの誓いを適用する必要がないと感じた医師もいました。

現代の日本においても、生活保護受給者を「義務を果たしていない半人前」として扱う風潮が強く存在します。ここにはユダヤ人をはじめとした人々を人間以下として扱い、「ケース」という「抽象化され非人間化されたカタマリ」として扱ったナチス・ドイツ政権下の医師たちの行動との類似が見られます。

日本におけるこの問題については、常に悪意によるものである、とも言い切れません。たとえば、

生活保護なら差別や偏見を受けて辛かろうなぁ……一刻も早くこの患者を経済的に自立させてやることが主治医としての私の使命だ

などといった、善意に基づくある種の「親心」のような心情から患者に就労を促す医師も存在するであろうことは想像に難くありませんが、そのようなケースであっても患者の意思が無視されていることに違いはありません。「地獄への道は…(以下略)」

心理的回避

多くの医師は、自分の行動に伴う道徳的・倫理的な責任を回避するため、選別作業や殺戮を「医療行為ではない」として切り離そうとしました。これにより、ヒポクラテスの誓いとの直接的な対立を避けたとされます。

裁判での評価と批判

戦後の裁判では、こうした言い訳や正当化はほとんどの場合、道徳的・倫理的に否定されました。特に、医師裁判(ニュルンベルク裁判の一部)では、ナチスの医師たちの行動が医学の倫理に根本的に反していたことが強調されました。

結論として、医師たちがヒポクラテスの誓いと整合性を図ろうとする言い訳は主に自己防衛や責任回避のためのものであり、現代の視点から見れば、それらはほとんど説得力を欠いています。

医師の役割は本来、人命を守ることであるという倫理的原則が、ナチス体制下でどれほど歪められたか、その歴史的事実が現代を生きるわたしたちに、改めて突きつけられています。

おわりに

最後に、すべての医師が心に刻み戒めとすべき「WMAジュネーブ宣言」を引用します。

医師の誓い

医師の一人として、
私は、人類への奉仕に自分の人生を捧げることを厳粛に誓う。
私の患者の健康と安寧を私の第一の関心事とする。
私は、私の患者のオートノミーと尊厳を尊重する。
私は、人命を最大限に尊重し続ける。
私は、私の医師としての職責と患者との間に、年齢、疾病もしくは障害、信条、民族的起源、ジェンダー、国籍、所属政治団体、人種、性的指向、社会的地位あるいはその他いかなる要因でも、そのようなことに対する配慮が介在することを容認しない。
私は、私への信頼のゆえに知り得た患者の秘密を、たとえその死後においても尊重する。
私は、良心と尊厳をもって、そしてgood medical practiceに従って、私の専門職を実践する。
私は、医師の名誉と高貴なる伝統を育む。
私は、私の教師、同僚、および学生に、当然受けるべきである尊敬と感謝の念を捧げる。
私は、患者の利益と医療の進歩のため私の医学的知識を共有する。
私は、最高水準の医療を提供するために、私自身の健康、安寧および能力に専心する。
私は、たとえ脅迫の下であっても、人権や国民の自由を犯すために、自分の医学的知識を利用することはしない。
私は、自由と名誉にかけてこれらのことを厳粛に誓う。

出展:日本医師会

医師のモラル崩壊と生活保護制度について、以下の記事で私は注意喚起を行っています。ぜひご一読ください。「懲罰的感情から、生活保護受給者には高額な治療を受けさせない」と公言する医師もいるという現実。そのような医師はヒポクラテスの誓いをどこに置き去りにしてしまったのでしょうか。

最後までお読み頂きありがとうございました。

  1. ヒポクラテスの誓いは、医師の倫理規範を示す古代ギリシャの誓約文である。医療行為の道徳的基盤を確立し、患者の利益を最優先とすることを強調している。 ↩︎
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