このブログを通じて私は日本の労働環境がいかに「クソ」であるかを採算にわたって述べています。
ごく一握りの「勝ち組」つまりは「学歴エリート」や「経済エリート」を除き、多くの人にとって労働は、
- 苦役
- 地獄
となっているのが実情です。
これは、大型連休明けなどのタイミングで、人々が匿名で本音を吐露できるSNSの投稿を見れば明らかでしょう。
- 「会社行きたくない」
- 「会社辞めたい。でもお金がないから働くしかない。このループ、いつ終わるの?」
- 「休み明け初日から仕事行きたくない。生きてる意味がわからなくなる。」
- 「休み明け初日から残業確定。これ、本当に人間の生活なのか?」
こういったポストに満ちていますよね。
しかし私は「労働は本来、尊いものだ」という考えを持っています。
今回の記事では、なぜ労働は本来、尊いのか。そして本来尊かった労働がなぜ地獄になってしまったのか、私見を述べたいと思います。
労働は尊いものだった

1.狩猟採集社会の共同作業
狩猟採集社会では、労働は生存そのものであり、共同体の存続を支えるものでした。たとえば、狩りや採集は個人だけでなく集団全体のために行われ、収穫物は平等に分配されることが一般的だったと考えられています。このような労働には、自然と調和しながら仲間と協力するという「尊さ」があったのではないでしょうか。
2. 伝統的な農耕社会
農耕社会においては、村落共同体での田植えや収穫の作業が一例です。特に日本の「結(ゆい)」や「村の助け合い」は象徴的で、人々が互いに協力して田畑を耕す文化が根付いていました。これらの作業は単に経済活動ではなく、共同体の絆を強め、信仰や祭りとも深く結びついていました。
3. 職人文化の労働
中世のギルドや日本の職人文化では、労働は「技術」や「美」を追求する行為とされていました。たとえば、日本の刀鍛冶や陶芸、ヨーロッパの建築職人(ゴシック建築の建築士など)は、自分の仕事に誇りを持ち、共同体や次世代のために技術を伝承していました。このような労働は、自己実現と共同体への貢献が一体化していました。
4. ボランティア的労働の実践
例えば、現代でも災害支援や地域の祭りの準備など、報酬を目的とせず、自主的に行われる労働は「尊いもの」とされています。これらは共同体の利益や他者への奉仕に基づいて行われるため、労働そのものに意義や満足感を見出すことができます。
ただ、奉仕を他人にも強制する人が出てくるのは困りものですね。
(同調圧力)
5.戦後復興期の労働
日本の戦後復興期において、一面広がる焼け跡の瓦礫から町や家を再建するための作業は、共同体の未来のために多くの人々が自発的に行った尊い労働の一例だといえます。人々が助け合いながら、生活基盤を整えるために力を合わせた姿には尊さがあったのではないでしょうか。
労働はいかにして地獄になったか
では、このように本来は尊いものであるはずの労働が「地獄」になってしまった背景にはどのようなものがあるのでしょうか?
1. 資本主義の影響
労働を地獄にしてしまったのは、資本主義的な搾取構造が大きいと考えます。労働が、自己実現や仲間との協力のためではなく、利益追求のために効率化・機械化され、単なる生存手段に変えられてしまったわけです。
労働者は歯車の一部となり、個人の価値や創造性が軽視される社会構造が労働の尊厳を奪ったという側面があります。
2. 働き方の分断と疎外
近代以降、労働が社会の中で分断され、疎外が進んだことも一因でしょう。個々の労働が全体の意味を見失い、労働者が自分の仕事の結果や社会への貢献を感じにくくなりました。「がんばれども何も反応が得られない」ということです。これは辛いですよね。
これは、機械化や専門化が進む現代社会において特に顕著といえます。
3. 消費社会の価値観
さらに、消費社会の価値観が、労働の意義を歪めてしまった点も指摘できます。働くこと自体の尊さではなく、労働の報酬として得られる消費や、報酬の高低が定める社会的地位が強調されることで、労働そのものが手段化されてしまいました。
つまり「その仕事、本当に社会に必要ですか?」と、無意味・無価値としか思えない仕事についている人々が高額な給料を得たり、逆に「どう考えてもその仕事は社会に欠かせない仕事だ」と皆が思っている仕事についている人々が薄給のために困窮にあえいでいたりする。こうした事が起こるようになってきたわけです。
4. 政治・経済システムの問題
政治的・経済的なシステムも、労働の価値を損ねてきました。労働者が不当な条件で働かされる環境や、経済的不平等が広がる中で、働くことが苦痛や義務と感じられる社会が生まれてしまったといえます。
たとえば、日本は議会制民主主義の国で、すべての人に議員として立候補する権利が与えられていますが、現実的にはすべての人に議員になる道が開かれているとは言いがたい状況です。
供託金や選挙戦で勝つための費用などをかんがみれば事実上、資本主義社会において金を稼ぐ能力に長けた個人でなければ議員に立候補することは困難な状態です。
おわりに~希望を取り戻すために
では、労働の尊さを取り戻すにはどうすればよいのか?
それには、労働をただの「手段」ではなく、「目的」に近づけるために、自律性や創造性を高める仕組みづくり、共同体とのつながりを再構築する努力が必要だと考えます。働くことが、再び自己実現や社会貢献の場となるような価値観と制度を取り戻さねばならないということです。
私は、インターネットに大きな可能性を感じています。「楽しいことだけをしていたら、それが意図せず誰かとつながっていて、感謝される」そんな社会を実現することが私の夢です。
最後までお読み頂きありがとうございました。