私は、体罰は絶対に許されるべきではないと考えています。
今回の記事では、体罰はなぜ全面的に禁止されなければいけないのか?について、政治形態である民主制と専制になぞらえて説明したいと思います。
体罰を容認する人々の主張
体罰を容認・推奨する人々は、しばしば次のような意見を述べます。
- 「体罰を受けたおかげで真人間になれた」(指導対象側の意見)
- 「体罰でなければ指導できないタイプの生徒もいる」
- 「体罰があるからこそ生徒は怖れを持ち、規則を守る」
こうした主張に対して、私は明確に否定の立場を取ります。
体罰が全面的に否定されるべき理由
人間は、完璧な存在ではありません。たしかに、優れた人格者が適切な目的で体罰を用いた場合、一時的に良い結果をもたらすことがあるかもしれません。また、「体罰なしでは指導が難しい個人」が存在するという意見も一理あるでしょう。
しかし、「一定の条件下でうまく機能する可能性がある」からといって、それを許容してしまうのは大きな誤りです。
この問題をより深く理解するために、政治形態における「民主制」と「専制」を比較して考えてみましょう。
民主制と専制の違い
日本は「民主制」の国です。民主制の重要な要素の一つは、「国民が主権を持ち、権力を選択・監視・交代できる仕組みがあること」です。
たとえば、日本の政治システムには以下のような明確な任期制限があります。
- 衆議院議員の任期は4年
- 地方自治体の首長(都道府県知事・市町村長)の任期も4年
- 最高裁判所の裁判官は任命後10年ごとに再任審査を受ける
どれほど優れた政治家であっても、任期が来れば選挙で主権者の信任を得なければなりません。これが民主制の基本原則です。
なんとも面倒くさく、遠回りと感じる方もおられるかもしれません。
では、なぜこのような制度が設けられているのでしょうか?
権力の集中が招く悲劇
私も日本人ですので、たとえば「総理の〇〇さんはよくやってくれているから、ずっと〇〇さんにやってもらいたいなあ」と思う人が日本人の中に少なからず存在していることは、心情として理解できます。しかし、現実にはどんなに優れた指導者でも、無制限に権力を持ち続けることは許されていないのです。
これは、私たち人間が歴史から学んできた知恵です。
- どれほど誠実な人物でも、永遠に誠実であり続けるとは限らない
- 良識ある指導者であっても、環境や状況によって判断を誤ることがある
- 長期的な権力の集中は、必ず腐敗や専制につながる
歴史を振り返れば、こうした例は枚挙にいとまがありません。「この人なら大丈夫」と思われた指導者が、時の流れとともに変質し、国民を抑圧して不幸にし、国を危機に陥れたケースは数多くあります。
だからこそ、民主制では権力に任期を設け、交代可能な仕組みを整えているのです。
民主制には、批判的な意見も、もちろんあります。なにを決めるにも時間がかかりすぎる、というのがその代表的なものでしょうか。英国の首相であったウィンストン・チャーチルは民主制を以下のように述べたことは広く知られています。
“Democracy is the worst form of government, except for all those other forms that have been tried from time to time.”
「民主制は最悪の政治形態だ。ただし、民主制の成立以前に存在したあらゆる政治形態を除けば、だが」
しかし、民主制には「決定に時間がかかりすぎる」という欠点を補って余りある利点があります。最大のものは、権力の集中を防ぎ、国民が政治を監視し、必要に応じて指導者を交代させる仕組みを備えていることです。この仕組みがなければ、権力が交代するたびに多くの人の命が失われることが不可避となります。
歴史を振り返れば、迅速な決定を可能にする専制政治が、必ずしも良い結果をもたらしたわけではないことは明白です。確かに、独裁者のもとでは決定は速く、迷いも、膨大な時間を要する利益調整も必要ありません。しかし、その決定が誤っていた場合、それを正す術がなく、悲劇的な結末を迎えることが少なくありませんでした。
民主制は完璧ではないかもしれない。いや、極めて不完全な未完成品かもしれませんが、私たちが過去の過ちから学び、より良い社会を築くための仕組みとして、最も優れた制度であることは疑いようがないのです。
人間は不完全な存在である
では、体罰の話に戻りましょう。ここまでの議論を踏まえれば、結論は明白です。
なぜ体罰は全面的・絶対的に否定されなければならないのか?
それは、「人間は不完全な存在だから」です。
たとえば、ある教師が非常に優れた指導者であり、自己の感情を抑え、指導に自己の卑小なエゴが入ることを常に自己監視して厳しく律し、いつでも生徒の成長を第一に考えているとしましょう。仮にこのような人物が実在するとして、このような人物が体罰を行う場合、それは「良い体罰」と呼べるのかもしれません。指導された生徒が良い影響を受けることもあるのかもしれません。
しかし、どんなに優れた人でも、以下のような状況に陥ることはありえます。
- 大切な家族を失い、精神的に不安定になった
- 自身が病気になり、判断力が低下した
- 加齢による変化で、感情のコントロールが難しくなった
- 過度のストレスで、自覚のないまま短絡的な行動を取るようになった
このような状況下でも、この人物は、体罰を適切に運用できるでしょうか?自尊心、自己愛、承認欲求などの私的なエゴが指導にこめられること、生徒のためでなく自身のために権力を乱用すること、を100パーセント、防止できるでしょうか?
答えは明らかです。「人間は不完全な存在である以上、絶対に間違いを犯す」。だからこそ、体罰という手段は許されるべきではないのです。
「めんどくせえな。体罰でいいんだよ。体罰でわからせたほうが話が早いんだよ」
こうした主張は、面倒だからと楽をしたがり、民主制を否定することに等しいのです。そして歴史が示すように、その代償は常に立場の弱いものが払うことになるのです。
おわりに
私たちは、歴史の中で権力の腐敗や暴走を何度も目の当たりにしてきました。その反省を踏まえ、民主制のもとで権力の上限を設け、交代可能な仕組みを整えています。
体罰に関しても、同じことが言えます。
- どれほど優れた指導者でも、いつか誤る可能性がある
- その誤りによって、一人の人生が取り返しのつかない傷を負うこともある
- だからこそ、体罰は絶対に許されてはならない
体罰は、どんな状況でも、どんなに高潔な人物によっても、決して許されるべきではありません。それが、人間の不完全さを前提にした社会のルールであり、私たちが未来に向けて守るべき原則なのです。
最後までお読み頂きありがとうございました。